作業体Kの「ロケットまつり10」  



ロケットまつり10 2006年2月11日

はじめに
 平成18年2月11日に新宿ロフトプラスワンでロケット祭り10が開催されました。
 当日の出演者は日産の垣見さん(ラムダロケットの主設計者)、宇宙研の林さん、松浦さん、笹本さんでした。
 以下本文ですが、メモ取りをしてるわけでもなく、記憶モードで書いているので、発言等はすべてではなく、用語等も正確ではありませんし、また会場限りというネタもありましたので、会場ではこんなことが話されましたよ、くらいで読んでいただければ幸いです。

1. 前フリ
 まずはややご立腹の林さんから。
 今月のISASニュースに、宇宙開発委員会の野本委員が糸川英夫博士がかつて提唱した超音速旅客機について、コンセプトをぶち上げただけではいけないというようなことを書いたそうですが、林さん曰く、技術者は技術的裏づけのないコンセプトは提唱しない。糸川博士には成算があったはずだ。現にアポロ計画の計画書は5割ほどがコンセプトの説明であり、しっかりしたコンセプトがあればそれは実現可能なのだ、ということで、プロジェクトとコンセプトの問題について語ってくれました。まあ、横の垣見さんから糸川さんは本当にぶち上げただけなんじゃないのという突っ込みは入りましたが。

 2月11日は日本初の衛星「おおすみ」が打ちあがった日です。
 ということで、以降話はおおすみを打ち上げたラムダロケットの中心に進んでいきます。なお、2月11日は林さんのお誕生日でもあるそうです。

2. ラムダロケットの運用と製造
 ラムダは運用が楽なロケットだったそうです。大きさがそれほどでないので当時の富士精密の荻窪工場で鉄板をグルグル溶接してガワを作り、半田工場に運んで推進剤を充填して最終検査、二、三、四段目はあらかじめ結合して一段目と合わせて二両の貨車に載せて内之浦まで運んで最終組み立て。
 現在のMXロケットは大きいので一段目はセグメント方式で分割されているので、最終組み立てに手間がかかります。ラムダはMXの五分の一程度の手間しかかからないそうです。
 製造について、ラムダは最初から5機は打ち上げる予定だったので、富士精密にあらかじめまとめて先行発注をかけたそうです。
 簡易な運用と量産。ラムダ時代の最短3週間程度の頻繁な打ち上げ間隔はこれに支えられていたそうです。なにしろ、おおすみは六回目でやっと成功したそうですので。

3. ラムダロケットの輸出
 ラムダは日本で始めて輸出されたロケットだそうです。まだ武器輸出三原則がなかった時代。輸出先はインドネシアと旧ユーゴスラビア(共産圏だ!)。インドネシア向けは観測用という名目のはずなのに引取りに来たのは軍人さん。ユーゴスラビア向けはサンプルに本体も輸出しましたが、メインは製造や運用のノウハウの輸出で、有体物の輸出ではなく知的財産の輸出。ユーゴスラビアから日本に研修にも来ていたそうです。なお、サンプルに輸出した本体はユーゴスラビア本国でエンジンテストに使用され、推進剤を詰め替えて8回のテストに耐えたということです(8回目のテスト中にドカンッ)。

4. カムイロケット
 笹本さんから北大で開発している小型のハイブリッドロケット(固体推進剤+液体酸化剤)、カムイロケット打ち上げの話題。
 打ち上げ場所に選ばれたのは北海道の大樹町というところで、雪の野原に4tトラックで本体を運んでそのまま100mほどケーブル伸ばして打ち上げ。なぜ雪原でかというと、背景が白いので立ち入り禁止区域に入ってくる人をすぐ見分けられる、なんか燃えても延焼を防げるということだそうです。ちなみに大樹町は打ち上げ場にはどうかということで、NASAの副長官を視察に呼んだそうですが、その方は「また来る」と言ったきり二度とは来てくれないそうです。アメリカ流にやんわり「ダメ」と言っているそうな。
 小型ロケットということで、林さんからラムダロケット復活の動きもあるという話題。電子機器の小型軽量化で、ラムダで打ち上げられる重さでもそれなりの衛星が作れるようになった現在、小型衛星を打ち上げるロケットの需要はあるのではないかということで、具体的には東海大学のキューブサットを内之浦で上げたいという動きがあるそうです。




 と、いうことで第一部終了。休憩をはさんで第二部に移ります。
 第二部はちょっと毛色の変わった話。

5. 資料は流転する
その1 間違えだらけ
 昨年の11月にJAXAの的川さんが書いた「逆転の翼 ペンシルロケット物語」という本が出版されました。これの資料に用いたのが「荻窪工場の思い出」という中島飛行機から富士精密工業時代の荻窪工場で働いていた方々が自費出版された回顧録。
 で、この回顧録の編集をされたのが垣見さんだそうなんですが、垣見さん、原稿を頼んで上がってきた原稿をチェックせずに製本に回したので内容が史実と違っていたりして、的川さんの本を読んで初めて誤りに気付いたそうです。古い方々が思い出モードで書いていることですし、中には話しに尾ひれをつけている方もいらっしゃったそうですので。
 この事実に松浦さんが大ショック。貴重な資料として全文コピーしたそうです。
その2 どこへ行ったのか
 林さんが、ラムダロケットの後期の運用で、月軌道に投入した「ひてん」のキックモーターの試作品を持ってきてくれました。
 これが曰く付きで、糸川博士が退任される際に記念に欲しいということで林さんに頼んだそうですが、一応、国の財産なのであげるのはだめなので、貸しておくということで糸川博士の手元に渡ったそうです。で、その後、糸川博士が亡くなられた際にある人物に遺品として渡ってしまったのを林さんが偶然発見して返してもらったそうです。貴重な技術資料が危うく個人蔵で行方不明になるところでした。
その3 新発見
 最近、愛知県の方南町で糸川博士の自筆メモなどの資料が段ボール70箱も発見されたそうです。整理はこれからだそうですが、ペンシルロケットの開発過程についても新たな発見があるかも知れないということです。

6. 質問コーナー
 質問コーナーでは印象に残ったやりとりについていくつか紹介します。

その1 宇宙のイメージ
 会場から垣見さんと林さんの時代の宇宙のイメージについての質問がありました。
 お二人ともおおすみが打ち上げるまでそもそも宇宙に行けるとは思っていなかったということで、現在イメージされるような具体的な「宇宙空間」というイメージはおおすみ以降のものだそうです。
その2 設計について
 宇宙機に限らず設計について重要な点は何かという質問について、糸川博士の言葉に(多分に後付の伝説だろうという話でしたが)「設計者は一日に五度手を洗え」という言葉があり、設計者は常に現場に出向いて、現場との濃密なコミュニケーションの内に設計を進めることが本当に良い設計、最終的な良い製品につながってくるということでした。

 以上で垣見さんと林さんのお話はだいたい終了。最後に松浦さんと笹本さんからはやぶさについてのお話がちょっと出ました。
なので最後に

7. はやぶさ余話
 ということになるのですが・・・。
 話のキモは会場限りということなので、まあ、はやぶさはやっぱパイオニアだけあって運用は本気でクリティカルなんだなあ、ということと、川口プロジェクトマネージャーの強烈な個性あってこその計画だったんだなあ、ということに留めておきます。

 以上、当日は土曜日ということもあり、会場は立錐の余地もないほどの超満員。ロケット祭り10は大盛況のうちに幕を閉じました。
 次回は4月ごろかな。


 

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